2020/9/30

やはり向かいのマンションの男はこちらをみている。
睨んでみたものの、変わらずこっちを見ていた為、何だか気分が悪くなってしまった。隣の人は私がベランダへ出ると窓を閉める。神経質な人だ。
私はベランダへ出る度に向かいの男が気になってしまう。今のところ実害は無い。
母が外部の視線に対し恐れのいている理由がなんとなく理解できた。なぜだろう。母が学生の頃下着を盗まれたからなのか、親になるというのはそういうことなのかは分からない。

私が小学生の頃、近所に住む、猫を散歩している親父の家に招待されたことがある。その際、母に相談したところ「絶対に行ってはいけない。」と言われた。
今思えば当たり前のことだったのだが。その男の娘、40代半ば?に私は嫌われていた。

自殺について。
私はあまり生きるということに執着がないようにみれるらしい。というのも、何度かそんな類のことを指摘されたことがあるからだ。
しかし、ここで私は反論したい。私は生気が無い訳ではないし、できる限り長生きしたい。特別、行動と反している訳でもない。というか、そもそも他人が長く生きたいか、生に執着がないかなど私には分からない。
思うにその


「怒り」という映画に広瀬すずが出ていた。基本的に私は彼女を好意的に思っている。しかしそれはとても個人的な感情だ。かつ、この映画の役どころは彼女の本質とは離れている。全く別のモノであるのに、まるで今までそうだったように振る舞わなければいけない。私は俗人であるが故にそういった事実との解離性につい困惑してしまう。それはベッキーがいなければ成立しないとも思う。ベッキーは女優志望なのだ。彼女の台本暗記を手伝ったときから、私は私の演技性と現実感の区別が、特に、作品を視聴している斎、難しくなった。私が現実的である証拠は自己暗示と利己主義の上にしか成り立たない。

他人の基本的な無害性について。
そして、他人への無利益な善意について。
この2つは似ている。しかし、それを素直に受け止め(過ぎるか)るか、の否かがのち、深層をえぐることになる。
あからさまでない事実を受け入れようとすることは決して悪ではない。しかし、善でもない。だが、感が悪いことは悪である。無知は善悪を無視する。